哲学モンキーの思念記録

気儘に我が思念を書き表す場所

モノとカネとヒトの扱い

モノの扱いとヒトへの接し方には、どこか共通点がある。

 物の扱いが雑な人は、ヒトとの関わり方も雑である傾向がある。物をテキトーに扱う人は、ヒトへの接し方もテキトーである。では、物の扱いが丁寧な人は、ヒトへの接し方も丁寧なのか?そうとも言い切れない。物の扱いが丁寧な人の中にも、見た目に非常に拘っている人もいる。物の扱いが丁寧なのに、ヒトへの接し方が雑な人は、人一倍『自惚れ』が強いとも言える。自己満足しなければ、相手を"仲間"と認識せず、単に"敵"もしくは"他人"と認知するのだろう。

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 ヒトへの接し方が自然と良い人は、どんな接し方をしているのか?基本、表情が豊かである。そして、相手に応じた『本音』を表現に気を配りながら伝えられている。有りの侭(まま)生きている人は、ヒトを惹き付ける魅力がある。何故なら、自信を持って相手と接するからである。自信を持っていれば、下手に隠す事無く堂々としていられるのだ。逆に、自信が無い、自身に対して後ろめたさが有ると、勝手に自分の殻に籠(こも)ってしまう。

 『一匹狼』と『引き込もり』の違いは何か?自信の有無、その一言に尽きる。一匹狼は、自分と気の合う人とだけ関わる。引き込もりは、自分を保護し、成長を促してくれる人に懐く。引き込もりは、環境や周囲にいる人々次第で大化けする可能性を秘めている。一匹狼は、信念が強い故に変えられない。

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 もし、人間関係でお悩みならば、先ずは自分自身を変えなさい。過去の習慣に対し、未来への目標を打ち立て、具体的な努力をしなさい。そうすれば、自然と良い人やモノを引き付ける様になっていきますよ。

DIOに憧れる『哲学モンキー』

 漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるディオ・ブランドー。そのカリスマ性と教養高さにて多くの人や人外を惹き付け、人間社会の支配を目論んだキャラクターである。

 数多くあるディオの台詞の一つに「モンキーなんだよッ!」というのがある。成る程、そのカリスマ性や教養高さからみれば、俺達は『モンキー』なのかもしれない。しかし、俺の場合は、人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする『哲学者』であると自負している。己の経験知により、人生や世の中を知ろうとする探求者である。なので、俺は単なるモンキーでは無い。哲学するモンキー、略して『哲学モンキー』だ。

 このブログでは、そんな哲学モンキーの思念を書き留める。思ったこと、考えている事を、遠慮無く容赦無く書き連ねていく。

 読みたければ、読めば宜しい。読みたくなければ、無視するが宜しい。

ムイフとは ~思うがまま書き表す~

 無畏怖とか無IFとか。自身の思念思想思考を表現するのに恐れ戦かない。"たられば"せず自身の過去を受け止めるなど。自身の立ち位置を認めて堂々とする。今までの歩みを肯定的に捉える。否定を否定する。肯定して基盤として前に進む。そんな意味合い。

 我が心の動きを書き表して自身の願望や欲望、理想が何か書いてみる。理想と実情が解離していれば不満だろう。不満なら動き出すのではないか?単に書き表す。そして、自身の情報として保管しておく。人は"情報の塊"。その情報を具体的に理解していれば使うことが出来る。その仕組みを理解していれば容易に利用出来る。書き表すのが大事。

 他人にとってこのblogの情報は無駄な存在だ。だが、自分自身にとっては有益な情報となり得る。楽に満足出来る進路に歩み出す為の材料として役立つ。このblogは私自身のみの為に存在する。自らの指針を定める材料として利用する。他人等どうでも宜しい。街ですれ違う人々の存在など知り得ない。単なる物体に等しい。人の形をした物体を"ヒト"と認知するには顔と名前の情報一致が必要。顔を覚え名前で呼び表されるとヒトとして認識する。私の中で、物体からヒトになるのだ。

 ヒトは"相手"とも呼び表される。そこから善悪や好き嫌いが発生する。相手となるまでは無関心だ。単なる物体として認識される。それは私自身にも言えて、他人も私を見る時は同様の反応を示す。つまり、他人は私を知らない、認識していないのだ。他人が相手となって利害が絡んで初めて、私は認識されるようになる。

 無関心な他人を恐れても意味が無い。他人に対して畏怖を抱く必要は無い。善し悪しや好き嫌いは結局の所は"私の都合"によって左右される。他人はそれ以前の問題。興味が無いのだ。興味や関心が発生して初めて、善し悪しや好き嫌いについて考えたり思ったり出来る。だから私は、他人しかいないネットワークで恐れ戦く必要が無い。だからこそ、気儘に思念を書き表す事が出来ると考えている。他人を恐れるのは無駄な行為だ。

 このblogで優先される読者は私自身だ。未来の私自身に向けて発信しているのだ。現在など一瞬一時で過ぎ去っていく。気が向いた時に一気呵成に書き上げる。その場の思念をとにかく書く。形や体裁など気にしない。これは私自身に向けた"過去の自分の情報"である。

 自分勝手な人ほど、自立心が強く皆を引っ張っていく。大半な人は惰性に従って生きていく。欲深い人が結局は皆を先導していく。欲浅き者は楽を求めて従順に従う。欲深い人の行動は目を見張るモノがある。欲浅い者は率先して動かず周囲を利用する。欲深い人は優秀なプレイヤーで頼りになるマネージャーにもなる。欲浅い者は無難に身を処していく。どちらにも一長一短有り。欲深い人は煙たがれる存在となりやすい。欲浅い者はやる気が無い様に見える。

 投資は面白そうだ。予測する為に自ずと考える習慣が身に付きそうだ。オッちゃんも言ってたし。情報を扱う力も身に付きそうだ。社会で権力や影響力を持つ人は、強運の持ち主か驚異的な予測力の持ち主かのどちらかだ。予測力を養うには現状を知る力を身に付ける事だ。現状を知る為に、情報を集約して整理し方針を定めて行動してみる。情報も様々な種類がある。現場が一番質の高い情報だが範囲は狭い。メディアでは幅広く情報を扱っているが信憑性や質は低い。メディアでcatchして現場で信憑性を確かなモノとする。現場で是非を確定させるのだ。メディアは可能性しか示さない。現場で答えが現れている。情報を集めるのは現場が一番。興味の切っ掛けを作る為にメディアを頼る。情報が一番早いのは現場。メディア(媒体)の情報は私の目耳に入る頃には古くなっている。どの現場に行くかは慎重に決める。質が高く鮮度も良いが範囲が狭く手間隙時間がかかる。媒体は手間隙時間をかけずに幅広く集まるが古く質も良くない。現場と媒体は上手く使い分ける。

 一つ一つの記事に、ありったけの思念情報を書き込む。情報は集約されていた方が後々ピックアップし易いからな。たとえ一度『公開』しても、思い立ったら付け加えて『更新』してやる。思念は気が済むまで書き続ける。ストレス発散になり、情報を集約すれば我が思念を理解出来る。思念を理解すれば何を施すか分かる。気持ちの持って行き方が見えてくる。

  利益を見込めれば人は自主的に動く。習慣は、関心や興味を起源として変化していく。自分勝手に我が欲望を満たした人は、相手や他人の為に考え行動していくのではないか。金と時間に余裕があれば自由となりラク出来る。金が不足すれば金に縛られ、時間に余裕が無いと義務に縛られる。
 個人的な目標があれば、会社目的に縛られず自由に活動出来る。人は、恐怖に駆られると縋る様になる。縋り続ける限り義務に縛られ義務の為に生き続ける。怖いもの知らずは自由な存在でもある。自立していれば尚更だ。自由は楽しい。思うがまま喜怒哀楽を発散出来る。

 人生100年の時代になっていく。そんな記事をよく見掛ける。ならば、のんびり生きれば良いんじゃないか?健康体で頭も冴えている状態を維持し続ければ其れだけで社会にとっては価値になる。身体を動かして働けて、的確適切な判断が出来る頭脳を維持していけば宜しい。必要な時に必要な場所で必要な事を成し遂げる人は貴重だ。人財とも呼べる。個人的には自然死が楽しみだ。だが、そこに至る迄には長い歳月を経なければならない。そこに行き着く迄の暇潰しとして、健康な身体と冴えた頭脳を維持し、無難に社会貢献して自身の価値を下げずに出来れば高めていくのが、のんびりと人生を楽しむ方法なのではないかと考えている。